ポレポレ東中野:正木基presents 001 – 炭鉱映画特集

正木基「清水宏、亀井文夫、今野勉の炭鉱表現を読む」

特集上映〈映像の中の炭鉱〉企画人である正木基氏による「清水宏、亀井文夫、今野勉の炭鉱表現を読む」を公開します。
なお、本テキストが収録されているチラシはポレポレ東中野にて無料配布中です。


清水宏、亀井文夫、今野勉の炭鉱表現を読む

【ⅰ】
 2009年、ポレポレ東中野は、目黒区美術館主催の「’文化’資源としての〈炭鉱〉」展の第三部、戦後の炭鉱を巡る映画表現の特集として「映像の中の炭鉱」を共催上映した。今夏、戦前、戦中の炭鉱がどのように視覚表現されたかを顧みる「坑夫・山本作兵衛の生きた時代~戦前・戦時の炭坑をめぐる視覚表現」展が原爆の図丸木美術館で開催される(同趣旨をトータルに編集の『坑夫・山本作兵衛の生きた時代~炭鉱はいかに表現されたか』(仮題、平凡社)も今夏刊行予定)。そこで、映像において戦前の炭鉱がどのように取り扱われ、どう表現されたかを、この特集上映においても考えてみることとした。
 炭鉱映画と言っても、炭鉱そのものがテーマとされるものから、炭鉱が舞台であってもテーマは別物だったり、物語の端緒が炭鉱であるに過ぎなかったり、まず炭鉱映画とは何かという定義づけが必要なのかもしれない。が、そのためには失われた作品も含めて、炭鉱にまつわる映画をトータルに見渡す必要があるだろう。(〝炭鉱〟というキーワードにかかる東西の映画を年譜化した労作、友田義行による論考「日本の映画史「三池 終わらない炭鉱の物語」への応答」参照:http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/pdf_22-2/RitsIILCS_22.2pp.21-37Tomoda.pdf)。
 とはいえ、炭鉱映画の先駆けのひとつは、炭鉱会社による自社宣伝としての記録映画という事になるだろう。代表的なもの、かつ、見ることが出来るものとして、社名をそのままタイトルにした『磐城炭礦株式会社』(1933年)と、北海道炭礦汽船株式会社による『躍進夕張』(1938年)がよく知られている(丸木美術館「坑夫・山本作兵衛の生きた時代」展会場でDVDによるモニター上映)。言うまでもなく、炭鉱会社がいかなるものか、いかに石炭が重要か、炭坑夫の日々の労働と生活など、会社の宣伝と坑夫の募集を兼ねる目的で制作されている。
 また、『戦ふ石炭』(35㎜、二巻(20分余))、公開1943年2月11日、製作:亜細亜文化、配給:日東商事)という、戦意高揚のための国策記録映画の作品例もある。フィルムが現存しないため内容には言及し得ないが、戦時のグラフ雑誌『写真週報』同様、戦争必勝のための石炭増産=炭鉱を挙げた銃後の闘いを鼓舞するものであったことはほぼ間違いない。磐城炭礦内内郷礦などを舞台にした作品で、竪坑櫓を背景に撮影中の制作風景写真が残っている(『写真が語る常磐炭田の歴史』、2006年)。カメラマンが被写体にレンズを向ける姿からして、射撃姿勢を想起させるが、戦時の坑内作業の映像(写真も含む)は炭層にコールピックを打ち込む炭坑夫の姿が銃を持つ姿勢に重なり、それらが相まっての「いざ、戦わん!」のプロパガンダとなる。とはいえ、戦時の炭鉱模様、炭鉱のプロパガンダがいかなるものかを確認するためにも、このフィルムの発見を願わないわけにはいかない。

【ⅱ】
 ならば、ドラマのような炭鉱を表現した映画、いわば炭鉱に生きる人々を主題にした映画の嚆矢は何なのか。失われた映画なども多々あり、簡単には確定しえないことだが、上記の『磐城炭礦株式会社』と同年制作の、清水宏『泣き濡れた春の女よ』における炭鉱の取り扱いを見ておくことは、炭鉱映画とは何かを考えていくうえでも意味あることと思われる。
 映画は、青函連絡船の乗船口で流れ者の坑夫と渡り者の酌婦の集団の遭遇が、ロケ撮影とセット撮影とを織り交ぜた場面から始まり、その後も基本的に、移動のシーンはロケ、ドラマの場面はセット撮影で織り成されていく。青函連絡船乗船後、船での移動は、遠くの雪の山並みとデッキでのロケ撮影で示されるが、デッキの船壁をバックにしてお浜(岡田嘉子)、その娘おみつ(市村美津子)、健二(大日方傳)たちの出会いのやりとりはセットによっている。この作品の場合、北海道でロケ撮影をする必要があったのは、雪原を行く坑夫の隊列を横移動でとらえ、断ち切れる画面左右に、荒寥無限の空間を暗示するため(この原野は北海道と鑑賞者は認識するだろう)、さらに、飯場から坑内作業に赴く際は、画面奥行きに縦移動する隊列を背後からとらえるのは、坑口という閉塞空間に向かうことを暗示するためであったに違いない。坑夫が港町に遊興に向かう際にも、この荒寥とした雪原を横断するロケ撮影が挟まれ、炭鉱と港町の距離感を感じさせているが、日々の労働の後、港町の飲み屋に行けるような炭鉱は、北海道にはないように思う。このことから、清水は北海道という具体的な舞台ではなく、本州から離れた北国の港町、雪深い炭鉱というイメージの匿名の場を前提したと理解できる。そのような場に渡り者の酌婦、流れ者の坑夫たちが流れ流れ、たどり着いての遭逢にはじまる男女模様、人間模様の厳然としたメロドラマが目的と言えるだろう。が、そこに表現された炭鉱の実情についての認識のありように、当時の炭鉱理解のレベルが示されていて、言い換えるならば、1933年における世の炭鉱理解がどういうものであったかが窺えることが興味深いのである。ちなみに、本作助監督の佐々木康の年譜には「清水組『泣き濡れた春の女よ』の北海道ロケで浮田をたずねる」とあるが、このロケ地と思われる「浮田」がどこなのか、不明である(佐々木康『楽天楽観 映画監督 佐々木康』(547頁、ワイズ出版、2003年)。
 さて、清水は生涯に163作品を制作、本作は、その86作目で、彼にとって初のオール・トーキー映画であり、この映画への言及の多くはこのことから始められると言っていい(清水宏の作品制作数は、田中真澄、佐藤 武ほか編『映畫読本 清水宏―即興するポエジー、蘇る「超映画伝説」』(フィルムアート社、2000年)による。山田宏一『エジソン的回帰』(青土社、一九九七年))によれば、松竹蒲田のトーキー映画としては十作目)。トーキー草創期、しかも自身にとって初の取り組みであるトーキーは、まだ自在に音入れが出来るわけでもなく、トーキーをどのように使うか、セリフの言い回しのみならず、効果音についても、清水なりの模索がなされたに違いない。それが、この映画における清水の大きな関心事でもあったろうと、注意してみれば、効果音の使用はことのほか多くはない。印象に残るのは、劇中、出演者たちによって繰り返し唄われる主題歌「流れ者の歌」「春の女の歌」であり、港町を思わせる汽船の汽笛の音、そして忠公(小倉繁)が亡くなる坑内の落盤事故の際の崩落の音だろう。
 そこで、港町に漂着した酒場女と流れ着いた男という物語は、ジョゼフ・フォン・スタンバーグの『暗黒街』(1927年、日本公開1928年)、『紐育の波止場』(1928年、日本公開1929年)『モロッコ』(1930年)の流れの主題を日本的に引き継いだ無国籍映画となったものという山田宏一の指摘を思い起こしてみたい(前出『エジソン的回帰』)。スタンバーグは、『モロッコ』の前に、ドイツ最初のトーキー映画『嘆きの天使』(1930年)を監督、順序は逆転するが、『モロッコ』が日本初の日本語字幕を付したトーキーとして1931年2月に公開、『嘆きの天使』も1931年5月に公開されている。ということから、流れ者同士のメロドラマの系列は、このサイレントからトーキーの流れの中で引き継がれたことに気が付かれるだろう。
 ならば、『泣き濡れた春の女よ』の、炭鉱落盤事故とその効果音の使用にも、その系譜のようなものがあったのではないかと、前出の友田義行氏の炭鉱映画年譜(「日本の炭鉱映画史「三池 終わらない炭鉱の物語」への応答」)を参照し、気が付いたのがレジナルド・ベイカーの『炭坑The Toilers』(1928年、日本公開年不明)、G・W・パプスト『炭坑 Kameradschaft』(1931年、日本公開一九三二年九月(註:作品は現在、Youtubeで鑑賞可能、英語字幕付 参照: https://www.youtube.com/watch?v=f6ECgORSmAE&list=PLD0BF9C89613A8AF6)の日本公開であった。ベイカーの作品はDVDなどで見ることは出来なかったが、ウェブサイトによるストーリーでは、坑夫三人と一人の薄倖の娘を巡る恋物語と落盤事故に巻き込まれた三人が生還する物語となっている(註:http://www.weblio.jp/content/The+Toilers)。また、第一次世界大戦の記憶も生々しい独仏関係下、国境を越えて落盤事故で坑夫を助ける炭坑労働者の連帯の物語であるパプスト『炭坑』は、発破からガス爆発の誘引にはじまる坑内火災・落盤事故のありようと救出劇を、ドキュメンタリー・タッチのレアルな描写で描くもの。ベイカーの作品の落盤事故の描写がどのようなものか定かではないが、パプストのリアルな落盤事故シーンは、その後の炭鉱映画のセットなどにも大きな影響を与えたと思われるものであった(キネマ旬報誌年間ベスト10では第4位)。
清水のことに立ち返れば、『泣き濡れた春の女よ』制作以前に日本公開された、この二つの『炭坑』のいずれかを見る機会はあったわけで、その仮説の基に、パプスト『炭坑』を見てみると、清水がスタンバーグ的な物語主題に、パプスト的舞台設定を補強して、渡り者の酌婦、流れ者の坑夫の物語を織り成したと見ることもできなくはない。
 その理由はと言えば、映画に限らないが、その当時、炭鉱の悲惨な坑内事故は世の人々の口の端に上りながら、それがどのようなものか、写真でも絵画でも具体的な視覚表現で伝達することは困難を伴っていた。が、再現ではあれ、動画という映画にはそれが可能であり、さらに効果音も付されたならば、そのリアリティーに驚かされたとしても不思議はなかっただろう。
 パプスト『炭坑』の落盤事故の精緻なセット撮影と効果音とが相まった見事な描写を見れば、耳目を見開かされる思いに捉われた日本の監督たちが少なくないように思わないではいられない。あくまで仮説的な見方ではあるが、日本における炭鉱を主題とした表現の系譜は、パプストらの作品から、清水の本作に移植され、さらに長いスパンで、言い過ぎも恐れず、仮定するならば、戦後のNHKTVの落盤事故ドラマ『どたんば』(1956年)などにまで触発を与えたようにも思えてならないのである(雨宮幸明「海外炭鉱映画からの視点 :『KAMERADSCHAFT論」(『立命館言語文化研究』 22⑵、2010年11月)参照:http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/pdf_22-2/RitsIILCS_22.2pp.39-48Amemiya.pdf)。
 このような映画監督という立場の関心とは別に、冒頭に述べた炭鉱会社や国策の炭鉱映画が、悲惨な結果となった炭鉱事故を取り上げることは基本的にない。というより忌避せざるをえない主題と言っていい。もともとは囚人労働などで働き手が補填されていた坑夫の仕事は、死と隣り合わせの危険なものである上に、労働の質においても厳しいものという認識が一般化してきた時勢下、国家的な重要性を帯びた採炭作業に従事するものを集める手前、炭鉱の仕事と生活を魅力あるものと訴え、坑夫募集の目的で制作される映画主題に、落盤事故がそぐわないのは言うまでもないことである。
 清水が作家として、自身の映画文法を編み出していく過程は、本作でも手に取るようにわかる(ロングショットでの全体把握の構図と移動撮影や、縦構図の強調による奥行表現などの清水独特の表現については岸松雄「清水宏の演出法について」『新映画』(1941年3月・5月号)参照、ここでは再録の『映畫読本 清水宏』(フィルムアート社、2000年)を使用)。
 清水特有の、酒場や飯場の安普請のセットもさることながら、パプストの『炭坑』の影響を受けたかもしれない落盤事故のセットと崩落音による再現は、『泣き濡れた春の女よ』が、邦画史上、最初とまでは断定しないにしろ、最初期の試みであることは疑いない。憶測にすぎないが、上述の北海道浮田での冬場のロケは撮影のためでもあったろうが、実際の炭鉱取材も兼ね、そこでの見聞をもとに炭鉱のセットを造作したとも考えられないだろうか。もっとも、パプストの救出の困難な表現に対して、清水作品では、主人公の健二が一人で坑内の倒れた坑木を軽々と除けながら、落盤事故にあった忠公の救出のため坑内を進むシーンの楽天的な描写や、納屋制度やタコ部屋などの過酷な雇用問題などへの希薄な認識など、メロドラマの物語性の優先の前に深く追及することがなかったのも事実である。が、清水の認識に、むしろ当時の炭鉱についての世の認識のレベルを見るべきなのかもしれない。

【ⅲ】
 亀井文夫の『女ひとり大地を行く』は、一般に132分の尺ものがこれまで知られてきた。が、2008年12月、国立フィルムセンターの「生誕100年 映画監督 亀井文夫)特集において164分のロング・ヴァージョンが編集され、初上映された(今回上映作品は残念ながら従来版)。この二ヴァージョンを「従来版」と「最長版」と命名し、同センターの板倉史明が、その成り立ちを興味深く読み解いている(「女ひとり大地を行く[最長版]』の復元」『東京国立近代美術館研究紀要』No.13、2009年)。板倉は二ヴァージョンを、「従来版一三二分もの=35㎜可燃性オリジナルネガ」と、「最長版164分もの=35㎜可燃性マスターポジ一46分+従来版ラスト2巻18分=164分」としている。オリジナルネガよりポジの方が長尺であるのは、マスターポジは映倫変更希望を受け入れる前のオリジナルネガから最初に編集されたもの(そのマスターポジは非上映用として今に残る)、マスターポジ編集後、映倫変更希望に対応しながら、再度、オリジナルネガを再編集してできたものが「従来版」あるいはそれに近いものとの仮説を、脚本と映倫審査後の完成作との相違、内容のみならず、マスターポジフィルムの製造期間やサウンドトラック再録音部分の差し替えなどへの言及で子細に検証している(映倫審査において外国および外国人の表象が問題にされたことなどの具体的な経緯も興味深いのだが、ここでは触れる余裕がない)。
 ここで、『女ひとり大地を行く』の製作日程を、『シナリオ文庫第五集 女ひとり大地を行く』(1953年2月1日発行)所収「制作日記」と板倉論文中に記述された「制作から公開までのプロセス」とで見ておきたい。
1952年6月 道炭労大会の自主映画制作の決定
8月初め 北海道地方委員会とキヌタ・プロとの共同製作・炭鉱映画制作委員会の設置、全組合員一人33円の制作資金カンパなどの決定。
9月15日 映倫にシナリオ第一稿が受理。
9月26日 北海道夕張炭鉱でロケ撮影開始、坑内爆発の坑口殺到シーンとズリ山のラストシーン撮影、会社側の妨害で坑内、選炭場、電気使用シーンが撮影できず、無期限スト(1952年10月13日 炭労 無期限スト)の前日、釧路太平洋炭鉱に移動、選炭場坑内ロケセットの撮影
9月30日 映倫、自主改訂版脚本受理。
10月3日 映倫、自主改訂版脚本審査終了。
1953年1月19日 完成フィルムの映倫審査。
2月20日 全国封切
 映画制作決定から映倫にシナリオ提出まででも3カ月弱。撮影も9月下旬から10月下旬までか11月上旬とすれば1カ月余り。編集に2カ月。道炭労大会の自主映画制作決定の前から映画制作の話は進んでいた可能性があるとしても、制作決定から完成までの時間の短さに驚かされる。
 『女ひとり大地を行く』のシナリオは、「労働者のじしんの生活を映画に描き出すために、こういう問題もある、こんな事件もいれてほしいというかたちで、映画のストーリーを労働者みずからがつくりだしている。そのストーリーは機関紙に発表され、大衆的な検討が加えられ、なんども改められて決定稿となり、それをもとにしてシナリオが書かれた」といい、このシナリオ執筆に二人の職場作家(石田政治、松岡しげる)がキヌタ・プロのシナリオライター(千明茂雄)に協力して書かれたという(山内達一「女ひとり大地を行く―亀井文夫論のための覚書」『ソヴェト映画』(1953年1月)。その膨大な長さとなったシナリオ第一稿を、〝技術家〟の資格という第三者的立場で映画監督・新藤兼人が1万呎以内に収めるという協力を行ったというのがシナリオ成立の経緯である。(『シナリオ文庫第5集 女ひとり大地を行く』(1953年2月1日発行)。
 このことは、この映画のことを考える上で、二つの意味を持つだろう。
 まず、地元の声(1人33円の制作資金カンパをしたスポンサーでもある)からなるシナリオの成立事情は、ある意味、監督たちの現場での自由裁量の思いを規制したと思われるし、製作の切羽詰まった日程、さらには不慣れな炭鉱での撮影、しかも「会社と御用幹部たちが、どんなに意地悪く妨害したか」(熱田五郎「ルポルタージュ 炭鉱 怒りは根深く 北海道夕張炭礦」『人民文学』(1953年3月号)、佐々木基一「作品評 女ひとり大地を行く」『映画評論』論文より再引用)と書かれたように炭鉱会社側からのロケ撮影不許可などの困難を抱えていた。このような状況下、ある程度、脚本内容に沿いつつ手際よい撮影を心掛けざるをえなかったのではないか、という推測はありえるのではないか。そのことを念頭に以下のことを考えてみたい
 従来版と最長版との具体的な違いは2作を見比べなければ分らない。が、実際、従来版を、板倉が言うところの映倫提出「自主改訂版」シナリオを参照しながら見れば、シナリオからの多くの削除シーン、シナリオにない若干のシーン追加がどこかの大体は判明する(註:オリジナルシナリオ『〝美しき女坑夫の一生〟改題 女ひとり大地を行く』(ガリ版刷)で確認。そのほか『シナリオ』(1952年12月号)、前出『シナリオ文庫第5集 女ひとり大地を行く』、前出『ソヴェト映画』(1953年1月)に掲載の同一シナリオ参照)。その比較を詳述する余裕はないが、板倉が、従来版と最長版二作を見比べ、マスターポジにありながら、従来版では削除された部分と、基本的に同じシーンのように思われる。
 板倉は、作品の尺について、本作の二人の作品評に触れている。そこに引かれた佐々木基一の「4時間以上の長尺を2時間余りに短縮」「カットされているものは見ていない」(「作品評 女ひとり大地を行く」『映画評論』、1953年4月)、滋野辰彦の「この映画の原型は四時間に近い長作だったという。わたしの見たのは2時間半の興業用プリントであった」(「日本映画批評 女ひとり大地を行く」『キネマ旬報』、No.63、1953年5月上旬号)という記述から、彼らが見た作品は劇場公開もの、すなわち従来版か、それに近い作品と判断されている。
 ここで板倉が触れなかった二つの文献を見てみよう。映画封切りに合わせた刊行と思しき1953年2月1日発行の『シナリオ文庫第5巻 シナリオ 女ひとり大地を行く』に「映画を巡って」という感想が所収されている。ここで出演者・朝霧霧子の夫で、俳優のシミキンこと清水金一は本作品について「えんえん3時間」、映画監督の関川秀雄は「3時間を通じて」とその長尺な時間にふれている。この「映画を巡って」に執筆の顔ぶれを見ると、本作の関係者や身近な人たちのようで、この感想は関係者に向けた試写によって書かれたと推測できなくはない。この記述にしたがえば、この試写では、「4時間以上」「4時間に近い」版でも、「2時間余りに短縮」「2時間半」の短縮版、従来版に近い版でもない、別の尺の作品の試写が行われていたと推測できないだろうか。
 板倉は、佐々木基一、滋野辰彦の言う「4時間以上」「4時間に近い」フィルムについて「撮影時のリテイクも含めた撮影フッテージの総計が4時間程度あった」と推測されている。ならば「えんえん3時間」、「3時間を通じて」というフィルムは、「撮影フッテージ」と「従来版」の間のもう一本で、それが関係者に向けて試写されたとも考えられなくもない。
 そのようなことから、ここでは、亀井たちは、新藤兼人が1万呎以内に収めたシナリオのワンシーンワンシーンを撮りながら、撮影現場でさらに即興的な取り足しもして、その撮影フィルムの尺、いわゆる撮影フッテージが4時間前後になったということにならないだろうか。
 このことに関してもう一つ、亀井文夫らに近い映画ジャーナリスト山内達一の一文を見ておこう。彼は「女ひとり大地を行く︱亀井文夫論のための覚書」(前出『ソヴェト映画』1953年2月、No.33)の付文に、「この作品研究の対象となった映画は「炭坑版」といわれるものであり、一般封切の短くなったものではありません」と書いている。『女ひとり大地を行く』冒頭に「これは北海道の炭鉱労働者が1人33円づつ出しあってつくった映画である」と掲げられた言葉は、本作品を見た者皆が読んだと思うが、この作品は北海道炭鉱労働組合の全組合員からの制作資金カンパによって作られている。ならば、製作の当初から、作品完成後は、各産炭地、各炭坑での上映が前提、準備されたと考えられないだろうか。丸木位里・俊夫妻の『原爆の図』展が、1951年10月末~12月初めに第1期5カ所、1952年1月~5月初めの期間に第2期30カ所、全道規模で産炭地を中心に巡回されたことが、近年明らかにされている(白戸仁康「GHQ占領下の「原爆の図」北海道巡回展 1951年10月28日―1952年5月1日」『’文化’資源としての〈炭鉱〉展 「夜の美術館大学」・講義録』、目黒区美術館、2012年)ほか、岡村幸宣「丸木美術館学芸員日誌」(参照:http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/)など)。この時期、炭労は、このような文化普及活動をネットワーク的に展開する力量を十二分にもっており、フィルム一本と映写機とスクリーンの準備さえできれば可能な『女ひとり大地を行く』の道内炭鉱への巡回上映は、考えられて当然のことだったろう。山内が言うところのフィルム「炭坑版」というのは、その巡回上映のためのフィルムを前提とした「語」のように思われなくはないのである。ただ、フィルムセンター所蔵のマスターポジが非上映の状態にあるという事、「炭坑版」と呼ばれるフィルムが見つかっていないことなど考え併せると、製作者側が「炭坑版」の炭坑での上映巡回を希望していたにもかかわらず、結局、予算などの問題で従来版か、従来版に近い尺物を巡回上映したと考えられなくもない。このあたりは、今後の調査を待つこととしたい。

【ⅳ】
 労働者と主婦の声を集めた職場作家と職業シナリオライターのコラボで書いたものを新藤兼人が1万呎以内に収めたという『女ひとり大地を行く』のシナリオは映画にどのような影響を与えたのだろう。それは、映画を見れば一目瞭然だろう。というのは、従来版の2時間余りの尺であっても、この映画は、その当時の炭坑問題の様々な問題や出来事を幅広く取り込もうとしているからだ。当時の的を射た批評として、滋野辰夫のものを見てみよう。
 「新藤兼人がこれほど冗漫なシナリオを描くわけは内容に推測される。これだけの素材をあつかっても、もつと省略し、凝縮したはずである。ところがこの映画は、炭鉱の生活を背景とする労働者のあらゆるエピソードを取入れようとし、映画は膨れ上がるばかりで、どこに力点があるのかわからない」(前出:キネマ旬報)。
 また、組合映画という事で、当時は、炭鉱労働者の団結をテーマとした映画として見ているものが少なくない。そのことを佐々木基一は、「(いわゆる組合)映画を作る人々、脚本家演出家などが完全に自由に、のびのびと作れる条件はさほどととのっていないのである」とした(前出:映画評論)。
 が、労働者と主婦の思いを取り込んだ職場作家と脚本家の組合的視点からの炭鉱会社への基本的な思いが、この映画にはちりばめられていることになる。例えば、ひとつのガス爆発事故が、この作品を通底する炭坑労働者と家族の最大の気がかりに思えるのは、このことが作中、三度にわたって言及されるからだ。その事故とは、1920(大正)年6月14日、1人の救出もなく坑口を封鎖、犠牲者204人(女坑夫12人)もの遺体を収容しなかったという、夕張炭鉱史上の記憶に残る大事故、北上坑のガス爆発のことである(犠牲者数は、田口睦夫「大正から昭和初期の労働争議」『知られざる炭鉱の歴史 わが夕張』(煉瓦社、1977年)によった。後出の今野勉作品の記述でも触れる)。
 喜作(宇野重吉)が炭鉱のタコ部屋を脱出するきっかけとなったガス爆発の際、火災に見舞われた坑口の密閉を、坑夫を残したまま直ちに閉じるよう鉱長が命じ、坑内から脱出を図る坑夫の手の上に土嚢を積む場面は、まさに北上坑の坑口封鎖を思い起こさせる。また、切羽の坑夫たちが廃坑から出た女坑夫の遺骨について会話を交わす場面や、選炭場で石炭に交じって流れてきた人骨を手にした、疲労困憊のサヨ(山田五十鈴)が卒倒する場面も、明らかに北上坑の事故に関連付けられている。
 この北上坑ガス爆発事故の記憶へのこだわりには一つの理由がある。映画撮影数年前の1949年以降、夕張二新坑の掘進中に突き当たった古い坑道で、北上坑ガス爆発の犠牲者十数体の遺骨が発見されはじめ、閉じ込められたコンクリート壁を引っ掻いたように指の骨がなかった遺骨も見つかるという事件があったからである(前出の田口睦夫「大正から昭和初期の労働争議」、なお小池弓夫、田畑智博、後藤篤志『地底の葬列 北炭夕張56・10・16』(桐原書店、1983年)では1951年になっている。この後の今野作品において、さらに言及、参照のこと)。北上坑大惨事から約30年間、打ち棄てられていた遺骨の発掘を、炭鉱の生活者たちはいかように受け止めただろうか。人命軽視に変わりないまま石炭増産を強いる会社側への不信と自らの生命と生活の不安の喚起が冷めやらぬ状況下で、このシナリオが描かれたことは疑いない。
 落盤やガス爆発の事故、それが原因で夫を失った寡婦・家族にしても、朝鮮や中国の人々の奴隷的雇用も、戦時増産や戦後の七万トン増産の掛け声も、安全をないがしろにしたままにされている。坑夫の心のうちに連綿とトラウマとして引き継がれ、いや一層増幅されてきた不信の記憶が、火災にまかれた坑内から坑外に逃げ出そうとする坑夫の手の上に土嚢を積んで封じ込める、という場面等に影響したのは明らかである。

【ⅴ】
 独身で、サヨの子どもたちの成長に大きな影響を与える金子の出征を聞いたサヨが、彼の若き日の母の写真を手にする場面がある。
 その際、サヨのもう一方の手に柳田國男の『小さき者の聲』(三国書房、1942年)が持たれ、金子の母の写真と共にその表紙がクローズアップされる。現場で何らかの思い(付き)なり、何らかの意図で即興的に併せ撮られたことは、シナリオに、この書籍のことが一切書かれていないことから明らかである。『小さき者の聲』は、子供の遊びの由来を文化や宗教などとの関連で読み解き、そのことの大切さを書いたもの。そこに金子と母(サヨ)の子供たちへの思いが象徴されているということなのか、この本の表紙の挿入の仕方はいささか唐突で、亀井はそこにどのような意図を込めていたのか、考える必要がありそうだ。
 この映画は『女ひとり大地を行く』というタイトルからして、食い詰めた農民から炭坑夫となった夫を炭鉱事故で亡くした、一人の母の物語を描いたものと受け止められる。一方で、母の物語という以上、子どもたちが、戦前の農村、戦時の軍統制下の炭鉱、戦後の占領軍統制下の炭鉱と変わりゆく社会において、家族の大切さを知ると同時に、社会に翻弄されつつも社会に目覚めていくという成長の物語を伴わないわけにはいかない。亀井は、当時話題となっていたアグネス・スメドレーの著作『女一人大地を行く』(尾崎秀實訳、酣燈社、1951年)のタイトルを思い付きで翻案し、「一人」を「ひとり」と平仮名に変更しただけのタイトルにしたとどこかで述べていたか、書いていた記憶がある。が、このタイトルは、子供の成長への着眼を希薄化し、母の苦闘の物語に収斂させてしまうように撮影しているさなかに思えてきたのではないだろうか。母サヨと、独身ながら彼女の子供たちのより良い成長を願う金子の二人の思いが、その思いを受けた子どもたちの成長の物語として引き継がれていくこと、その念押しが『小さき者の聲』の挿入だったように思えなくもない。実際、この子供たちの成長をうまく表現し得たかどうかは別にして、炭鉱の歴史と現状と問題点を撮影していた亀井とスタッフは、小さき者の成長とそれに伴う世代交代(による社会変革)への希望を、より強く打ち出したかったのかもしれない。
 サヨの次男の喜代二(内藤武敏)と恋人の孝子(岸旗江)の二人が、ズリ山の上に立ち、「若者よ体を鍛えておけ」の歌声と共に、その下を行く炭鉱労働者たちの隊列に手を振るラスト・シーンを思い起こしてほしい。「北海道の炭鉱労働者が一人33円づつ出しあってつくった映画」、すなわち組合の委託で制作された映画である以上、組合讃歌の結末になるのは致し方ないとして(亀井はじめこの映画のスタッフたちに組合支援の思いがあるのは当然である)、亀井たちはそれにとどまらず、炭鉱の若い世代に「炭鉱への思い」の継承を、後付けではあれ、強調し、また、未来を託したかったのではないか。
 いずれにしろ、この映画には、前出の滋野辰彦の指摘にあるように、夕張炭鉱の坑夫の視点からの断片的歴史、炭鉱の労働、炭住の生活、炭鉱の子どもたちの社会との関係などがモザイク状に描かれてはいても、そこに生きる人間個々の描写も甘かったり、物語的にご都合主義的が過ぎたりもする。が、現在、日本中から炭鉱も炭鉱労働者の姿もほとんど見ることのできなくなった今、たとえ断片であっても、炭鉱の現場で映画として無数の問題をとらえてくれていたことは、私たちに1950年代の炭鉱の生活、労働、闘争について想像と思索をなす手掛かりとなってくれないだろうか。

【ⅵ】
 夕張の登川炭鉱で父親が炭坑夫をしていた今野勉演出『地の底への精霊歌 炭鉱に民話の生まれる時』はN‌H‌Kスペシャルとして、1993年8月に放映された自伝的ドキュメンタリーである。
 今野によれば、このタイトルの「精霊」は「しょうりょう」と読むという。その意味は、「日本の古神道的なものを指す場合は「しょうりょう」「しょうらい」「しょうろう」などと読み、これは「故人の霊や魂」を指し、あくまで「とこよ」(常世・常夜。死者の世界、黄泉の国や三途川の向こう)に旅立った霊魂を指す。それに対して「うつしよ」(現世)に残ったものは「幽霊」「亡霊」「人魂」などと呼ぶ。」(wikipedia)という説明で足りるだろう。そのタイトルからも今野の出身地である夕張の登川のみならず、筑豊もふくめた地の底=炭鉱の「故人の霊や魂」の鎮魂を企図しての制作と見なすことは出来るだろう。
 タイトル副題は「民話の生まれる時」。民話、即ち民間説話は、市井の人々の住む世界で起きたことが、口伝えの伝承となった物語。口伝えの伝承=口承ゆえ、語り行く過程での単純化とパターン化、そして語り手の思いに規定されての内容の変容は免れない。が、そこには、語り手たちが口承で伝えたいさまざまな思いが湧出し、一方、口承を聞く者は、その思いを汲み取ることが促されるだろう。
 例えば、中学生時代に耳にした登川炭鉱に伝わる民話に込められたメッセージの意味を、今野が読み取ろうとしたのも、もっと言えば、このテーマでのドキュメンタリーを作ろうとしたのも、この民話の力に促され、その起源の思いを読み取ろうとしたからと言えなくはないのかもしれない。
 以下、少し作品を見てみよう。
 中学生の今野が父から聞いた、夕張登川炭鉱の落盤事故にまつわる民話=伝承とは、坑内作業で落盤事故に遭い、落石と坑木に挟まれた坑夫が、事故死したはずの一人の坑夫にがんばれと励まされ、生還したという内容。また、筑豊で目にした、山本作兵衛の『ヤマと狐』に描かれた伝承は、明治33年の春頃(名作『母子入坑』に描かれた作兵衛八歳の時)、上三緒炭鉱坑内ガス爆発で大やけどを負い、自宅療養中の坑夫宅に、医者はじめ十数人の見舞い客が訪れ、医者が患者の包帯を解き、瘡蓋を剥ぎ取る治療後、夫が丸裸で息絶えたのを、炭鉱の人々が火傷や疱瘡の瘡蓋を好む附近の野狐の所為と考えるというものだった。
 この二つの伝承には、坑夫が遭った事故(落盤・ガス爆発)、という共通点がある。今野は、この二つの起源となった出来事、この事故とそれにまつわる話が実際にあったのか、また、由来となったのはどういう事なのかを炭鉱の民話の成り立った時代と場所を問うことでさぐっていく。結論から述べれば、この問いの解を求めていく過程で、もうひとつの炭鉱民話と出会い、同様に解を求める、その検証が実にスリリングなのである。
 まず、今野のこの作品が、炭鉱と狐の伝承が少なくないことを、山本作兵衛の作品に狐の絵が結構あることから明らかにしたことが、まず興味深い。先の、ガス爆発で火傷を負った坑夫と狐の物語の他、明治33年夏(『炭鉱の語り部 山本作兵衛の世界~584の物語』(2008年、田川市美術館+田川市石炭・歴史博物館)のNo497の画中には明治32年)、福岡県嘉穂の山野炭鉱で、石油ランプの自然発火で頻繁に起こった炭住火災が、炭鉱開鑿(シバハグリ)の際、巣穴を壊されて子狐を生き埋めにされた親狐のたたりであったという話、狐の狩猟でも、たたりを恐れ、たたり除けの言葉を発したという習わし、上三緒から近道の長崎街道冷水峠越えをせず、急峻な上、遠回りの八木山峠を経て、やけどの坑夫を二日市温泉に運ぶのは、冷水峠に千年の長寿を保つ白狐を祀る大根地神社があり、一帯が狐の聖地であるため狐の祟りを恐れてのことだった話など。炭坑と稲荷信仰という着眼はあったにしろ、作兵衛作品の狐を通して炭鉱を考えたり、言及したものは、今野をおいて、まずいなかったように思う。
 登川炭鉱は斜めの炭層で先山・後山二人一組の採掘法が残ったため、炭鉱の近代産業化が遅れた一方で、互助組合的な友子制度が残ったという。炭層のお陰で大きな落盤事故はないものの、小さな落盤事故はやはり恐怖であり、大正、昭和初期に事故で廃業した坑夫の互助資金は、全道から集められたという。今野は、登川の坑夫励ましの伝承が、昭和7~8年頃に、民間祈祷師たちに語られていたことや、友子制度の濃密な人間関係、小さな落盤事故で生き埋めになる恐怖、誰かが助けに来てくれるという仲間への信頼という坑夫や家族の思いを踏まえて、この伝承が大正昭和の時期に起きたと考える。
 今野が中学校時代に聞いた伝承を、中学卒業後、登川の炭鉱に勤務した同級生たちに聞いた者はいなかったが、他炭鉱の事故で、坑内火災の消火のため密閉した壁に閉じ込められ、爪痕を残して白骨死体となった坑夫たちの話を聞き出している。パーソナルの関わりから証言を得ることは、自身がそれを聞いたのか、聞かなかったのか、というパーソナルな問いとなるだろう。そのパーソナルな関心で、今野は、その坑夫たちの伝承の発生を解き明かそうとすることになる。

【ⅶ】
 1949~50年頃の夕張二坑三区での採炭中、旧北上坑の旧坑道にぶつかり、以後一年近くにわたって、一帯から多数の白骨遺体が発見され、そのうちの壁際で発見した何体かの遺体は壁を掻きむしったためか、指の骨がなかったと、人々の口に上るようになったという。それが【ⅳ】章の『女ひとり大地を行く』でも述べた北上坑の落盤事故(大正9年6月14日)で、199人の坑夫を坑内に残したまま、消火のため坑道を密閉したという話である(前述では犠牲者204人(女坑夫12人)と書いたが…)。
 このあたりはTVならではのフットワークで、今野が新たな伝承、炭鉱民話の起こりとなる発端の一九四九年にさかのぼり、研究者、遺体収容の当事者たちを探し出し、その証言から発端の真偽、事故の過程、遺骨発掘の実際などが徐々に輪郭を表してくる。ドキュメントしながら新事実が紐解かれていく現場に立ち会っている、このスリリングさが、この作品の白眉と言えるだろう。
 「煉瓦で密閉した中の1メートルほど先に遺骨」、「毎日出るのではなく、ポカポカッと出て、いつの人骨かもわからず、出た人骨もすっかり固まってしまっていて、手か足かもわからないほどだった」という証言のように、指先の磨滅の因も、意図することなく引き出している。遺骨収容した人々の見つけた人骨が明治期のものだったり、いつのものかわからないものだったり、炭鉱事故の無数に驚き、そこに長く打ち捨てられた遺体のくやしさに思いが及ばないわけにはいかない。遺体発見は、北上坑の事故のものだけではなかったと認識を改めさせられつつ、実際に遺骨発掘に関わった元炭鉱マンの人々が証言しながら、当時の炭鉱人としてのくやしさや悲しさに囚われた思いに立ち返っていくのも、同時に目にさせられる。そのように作品を見る私たちの前に今野は、助けを求める仲間を目の前にしながら密閉したという噂の出所として、夕張炭鉱を舞台にした『女ひとり大地を行く』の例の一シーンを提示するのである。
 今回のプログラムで、『女ひとり大地を行く』を上映するにあたって、従来版でもよしとしたのは、まさに、このシーンを見るがためであると言っていい。問題の『女ひとり大地を行く』(1953年)の落盤場面をシナリオ(前出の自主改訂版)で見てみよう。
 鉱長が「切羽の坑道を直ちに密閉してくれ……やむをえん、このままではほかの坑道に火が回るよ」と言う場面は、シナリオの「シーン36 坑口」に当たるが、この後半部分のセリフ「やむをえん、このままではほかの坑道に火が回るよ」はシナリオでは、鉱長に代わって、所長が「炭山を助けるんだ、炭山を!ぐづぐづしてたら会社がつぶれるじゃないか!密閉、密閉だ!すぐ密閉するんだ」と叫ぶようになっていた。撮影の前に、鉱長一人の発言に代えられ、セリフも、「会社がつぶれるじゃないか」、とか、「密閉、密閉だ!」という叫びが抑制されたことになる。
 また、逃げ遅れた坑夫の閉じ込めのシナリオは以下のようだった。
シーン38 坑道の分岐点
 「その一方は厚い扉でふさがれ、密閉作業が行われている」
シーン39 内側の坑道 
 「逃げ遅れた坑夫たち、折り重なって扉にしがみつき、それを爪で掻きむしり乍らうめき叫ぶ」
 こちらは、逃げ遅れた坑夫が積まれた土嚢の上に助けの手を伸ばした上に、また土嚢が積まれたという場面になっており、シナリオに従わず、撮影前にシナリオ書き直し、あるいは撮影現場で発案されたという事になるのだろうか。少なくとも、当初のシナリオ後のアイデアであることは疑いない。とすると、このシーンで、「会社がつぶれる」という直接的な表現を抑制し、映像で、坑内から逃げ延びようとする坑夫の手に土嚢を積む場面への変更は、何を意味するのだろうか。
 前章『女ひとり大地を行く』のところで、1949年頃、夕張二坑で旧坑道にぶつかり、そこから北上坑の白骨体が掘り出された、その記憶がまだ消えやらぬ1952年に、この作品が制作、翌年公開されたと書いた。それは、北上坑にまつわる白骨死体の話が、坑夫やその家族の自身の身に置き換え可能な真実味を帯びた時期であった。『女ひとり大地を行く』の制作、公開の時期は、炭鉱労働に従事する者にとって、北上坑の事故こそが、炭鉱会社の本質、坑夫にとっての、従ってその家族の最大の恐怖の事故に思えていた時期にまさに重なっていたのである。もしも自身が、自身の夫が遺骨のまま地上に上がれず、地底に取り残されたままとなってしまったらと言う思いが、北上坑の骨、指先がなくなり、壁にひっかき傷が、という噂と結びついたのだ。映画で逃げだそうとする坑夫の手の上に土嚢を積むシーンは、それを見た坑夫たち鑑賞者の、形を結ばないでいた生き埋めイメージに形象化を与え、「炭坑を助けるんだ、密閉!」の台詞の削除は、その形象化だけで、会社側の「有無を言わせぬ」やり口の象徴と判断しえたからではないだろうか。
 その文脈に対して今野が引き出した、当時夕張二坑の係員として、遺骨発掘に関わっていた関係者の証言がここでは炭鉱史的にも重要なものである。
 北上坑の残炭区域との認識で掘りつつ、遺骨に遭遇する前に、坑内の不気味な臭いと妖気にまつわりつかれたとの話もさることながら、粘土の中から遺体が掘り起こされた事実から、北上坑の事故には、自然発火防止のため、土砂流送充填がなされていて、その犠牲者は、泥水に埋もれて亡くなったという事、従って、消火のための坑道密閉という事実はなく、そこに坑夫が閉じこめるという事がなかったと言う証言がなされるのだ。実際、土砂に埋もれていた遺骨は、土砂を少しずつ、少しずつ掘り起しながら捜索、4~5日かかって遺骨を発見することになったと言う。北上坑の被害者は、壁の前で、壁を叩いたり、引っ掻きながらして亡くなっていったわけではなかったという、新事実が判明するとき、歴史は書き換えられ、この作品の意義に改めて気がつかされるだろう。これは逆に民話の成立に、ことのあいまいさが作用することを明かしている。
 次いで今野は、1968年の夕張平和坑での坑内火災の際にも、坑内注水による消火作業のため31名の坑夫が坑内に取り残されたことを紹介する。坑道密閉後の遺体捜索で、逃げ遅れた14名の坑夫が発見されるが、坑夫たちは、遭難の際、円陣を組んで救援を待つという鉄則に従って、坑内の小さな空間で車座を組んで救出を待ちつつ、一酸化炭素中毒で亡くなっていた、という。事故に遭っても、仲間が助けてくれると車座で待っていたという話には、坑夫間の信頼がいかなるものだったか、命を賭せるものだったと思いを新たにせざるを得ないだろう。

【ⅷ】
 炭鉱を直接知らない者たちがテレビなどで見てきたイメージは、炭鉱と言えば落盤事故、とりわけ事故後、坑口や遺体安置所で、遺体を前に遺族が悲しみの面会をして泣きくずれる場面が殆どだったのではないか。
 例えば、炭鉱閉山後の元坑夫となった者の生活のありようなど知らないものの方が多いだろう。今、手元になく出典は示せないのだが、1960年以降の何かの写真雑誌で、閉山後の筑豊(だったか)の炭住で、仕事もなく、引っ越しもできず、どてらを着て日々ぶらぶらせざるを得ないでいる元坑夫たちの困窮した生活を撮った長野重一の写真を思い起こしている。それらの写真は、閉山後、ただただ絶望に暮れている元坑夫たちの生活ならぬ生活であった。それを目にして以後、産炭地では、落盤事故や閉山という悲劇の前にも後にも、困難な生活という長い戦いがあることを、改めて再認識させらされた写真なのである(土門拳の『筑豊のこどもたち』にも不就労の坑夫たちは出てくるが、被写体の子どもたちが主題であった)。
 ということで、こうしたステレオタイプな炭鉱報道とは異なる炭鉱をテーマにしたTVドキュメンタリーの中に、今野の作品も、どう位置づけられるかを考えたくなる。というのは、今野の作品を見た後では、工藤敏樹の『ある人生―ボタ山よ』(1967年、‌N‌H‌K)と木村栄文の『まっくら』(1973年、R‌K‌B毎日)の二本の炭鉱ドキュメンタリーを思い起こし、それらと比較し、捉え方を考えたくなるからだ(以下、丹羽美之「制作者研究〈テレビ・ドキュメンタリーを創った人々〉第六回 木村栄文(R‌K‌B毎日放送)~ドキュメンタリーは創作である~」(『放送研究と調査』2012年9月号、N‌H‌K放送文化研究所)を参照した)。
 が、その前に、今書いた「ステロタイプ」の語で思い浮かんだ炭鉱ドキュメンタリーとして『坑道 ─片すみの百年─』(1966年、N‌H‌K)に触れておきたい。
 百年前に開鑿され、今、廃坑となる炭鉱の坑口から、鉄枠、柱、ポンプなどの坑内設備取り外し作業中の切羽まで、炭車で構えたカメラが、延々と暗い坑内の奥に入り込んでいくシーン(3分間)の臨場感が、まず、導入として素晴らしい。その先にある地圧、落盤、ガス、水との戦い。坑内に入ったTVカメラが、最後まで、それらの作業を近距離でとり続ける迫真性も見逃せない。一方、その合間に、開鑿の百年前に遡って、労働と生活環境の変化、炭鉱の近代化、多発する大規模事故の恐怖と被害に耐える宿命、絶えることの無い争議など、スタッフが筑豊で集めた六百枚の炭坑古写真から選び出した160カットで筑豊炭田地帯の歴史が回顧される。坑内作業のモノクロ動画の迫真性と、炭坑社会の無数の記憶たる古いモノクロ静止画の白と黒の対比には、炭鉱(史)の闇と光、坑夫たちの生と死への思いの陰影などが鮮やかに浮かび上がっていた。現場の迫真性と炭鉱社会の視覚的記憶の集成が相乗して生まれた説得力によって、このドキュメンタリーが、世の炭鉱イメージの祖形を形作るのに大きな影響を与えたように思えてならない。それを、炭鉱表現のいい意味での「ステロタイプ」の形成と言いたいのである。
 炭坑夫として約50年生きつづけ、退職後、炭坑の記憶を記録する炭坑絵画を描き続けた山本作兵衛翁の作品を通して、筑豊の炭坑の歴史、作兵衛翁の坑夫としての歴史を辿り返した『ある人生―ボタ山よ』は、TVドキュメンタリーの範囲の評価を超えて、永末十四雄、長尾達生、上野英信、菊畑茂久馬と共に、この作品の制作者、工藤敏樹の名前もまた、炭鉱絵師・作兵衛翁の作品の存在を世に問うた先駆者のひとりとして記憶させるものである。また、それまで取材対象とはならなかった坑夫、絵を描きたくても退職するまで描くことには集中できなかった一坑夫の生涯として取り上げたということに着目すべきだろう。言い換えるならば、炭坑生活の記憶を、炭鉱離職後の生活の中で描き起こした作兵衛翁の作品をもって顧みるという方法が、炭鉱生活が悲惨なだけでなく、人情味あるものでもあったことを感じさせ、他作品との差異を際立たせるのである。炭坑生活で良かったのは日露戦争後、米騒動後、朝鮮戦争後だけ、後は同じように苦しかったと回顧したという作兵衛翁の穏やかな表情を、この作品に見ながら和みを覚えるのは筆者だけではないだろう。作兵衛翁の作品のみならず、キャラクターを取り上げることによって、この作品は、不特定多数の匿名の坑夫たちによって、暗く悲惨な炭鉱生活を問題化しようとするものとの一線を引きえたのである。それにしても、作品中、3分間に渡り、作兵衛翁がゴットン節を謡うシーンに、坑夫として生き抜いた翁の呼吸や体温さえ感じるように思うのは、筆者だけではないだろう。

【ⅸ】
 報道内容と方法についての着眼は、木村栄文の場合も共通する。「筑豊のミゼラブルなものばかり」、「告発調のドキュメンタリー」ばかりの状況に異議を唱えるべく、『まっくら』を制作したからだ。それまでの坑夫達に寄り添いつつも、炭鉱社会の理不尽を問う映像には、その表層の裏面に炭坑居住者の生活という奥行きまでは描けていなかった。それらの記録映像の裏面の隠された厚み、不可視の生活における生命感、炭鉱定住者の土俗的、いや〝炭〟俗的な現実での目に見えない思いを、常田富士男、白石加代子、筑紫美主子といった個性的な俳優たちに筑豊の地で、肌に感受させ、形象化させようとしたのが木村の試みではなかったか。その試みの合間に、歴史的な筑豊の炭坑映像、記録映画やニュースの映像、スライド写真など炭鉱の視覚的記憶が差し挟まれることで、筑豊炭鉱地帯が、どのようなものであったかも提示される。ある意味、〝炭〟俗的に生き抜いた人々が見てきた歴史的映像の貴重さが、この作品のもう一方の生命であるといっていい。
 作品中「戦後筑豊炭田における事故死亡者数」として、「昭和23年 死亡531名/24年 死亡 481名/25年 死亡 451名/26年 死亡425名………45年 死亡 48名/46年 死亡 29名/47年 死亡23名」、最後に「この25年間に…死者7882名 重軽傷 延べ97万6562名」との数字がテロップで出されてくる。毎年毎年300名、400名台の死者数が100名を切ることになるのは、安全強化のおかげではなく、加速した炭鉱閉山ゆえであることは踏まえておかねばならない。言い換えるならば、木村は、「その死者たちを打ち捨ててはならない、死者たちの思いの復権を」、といっているように思えてくる。記録映像、恐らく、木村が勤めるR‌K‌B毎日放送のTV番組のために撮られたと思われる上野英信(炭鉱記録文学者)と森崎和江(作家)が、1966年夏にボタ山を見ながらの会話は、そうした木村の思いの代弁のようである。上野は言う。「ボタ山って言うと、何か筑豊の象徴のように考えられてたけれども、もう十年もすれば、ボタ山っていうの無くなってしまうんじゃないかしらって…100年以上に渡って掘ってきたものね、それはただ、石炭やこういうボタばかりじゃなくてね、何か非常に大事なね、民族のね、糧みたいなものをね、僕は掘っていると思うんだけども。明治から大正にかけてのあの暗黒な時代に、それは、随分歪んだものもありますけども、やっぱり、最後に自分たちのね、ひとつの自由区というか、解放区というか、そういうものをつくってきましたね。また、そういうものがあったならばこそね、あの過酷なね、百年の歴史って言うものに、僕は耐えてきたと思うんですよ。だからそういうものを、僕たちは、これからね、筑豊に作り出していかなきゃならん、言わば、一種の人民工場って言うかな、同時に軍隊であり、同時に学校であるというようなね…その夢しか筑豊にはないんですよ…」と。その自由区、解放区を生きた、たくましくも、どこかしら掴みどころのない〝炭〟俗的な人々の不定形な情念を、常田、白石、筑紫らに掬いとらせようとする演技が見ものなのだのが、とりわけ、戦前からの炭坑を生き抜いた母親役・筑紫の台詞は,筑豊弁ですべては聞き取れなかったものの、その語り口調が、この作品の骨子となっていることは疑いない。彼女の存在なくして、この「ドキュメンタリードラマ」の厚みは成り立たなかっただろう。
 因みに、紙芝居屋になった常田が、筑豊のボタ山を仰ぐ炭住で子どもたちに見せる紙芝居がある。主題は『石童丸』。わずか二場面が映されるだけだが、よく見れば、この絵の作者が、山本作兵衛であることに、彼の作品をよく知る人ならば気がつくかもしれない(最後に協力者の一人として山本作兵衛との名前は出されるが、紙芝居の絵の作者との明示はない)。が、テーマが『石童丸』で作兵衛翁の作品の主題と異なるがゆえに、そのことに気づいた当時の視聴者、いや、木村栄文作品を、近年、再上映で見た鑑賞者でも気が付くのは少なかっただろう(作兵衛翁の炭坑絵画の世界記憶遺産登録前でもあった)。が、興味深いのは、工藤敏樹、木村栄文、そして今野勉いずれもが、炭鉱ドキュメント番組の制作にあたって、その山本作兵衛(の作品)を登場させていることを、ここではとりあえず指摘しておいていいだろう(その理由などについては、いずれ再考の機会を得たい)。
 ドキュメンタリーを見る殆どの鑑賞者は、炭鉱の部外者であり、思いの共有は望むものの、所詮、自身の理解の形を求めることになる。それを木村栄文は、まず自身でそのことを常田ら俳優に託して試みたといってもいい。そういう意味では、外部から炭鉱を訪れ、通りがかりのように見ただけではわからず、そこに親しめば親しむほど視えてくる形にならない思いを自分なりに形象化しようとしているところに、木村と今野の共通があるとも言えるのかもしれない。

【ⅹ】
 先に、一寸子細に述べた『地の底への精霊歌』の展開の面白さは、何よりも調査のプロセスそのものの記録の面白さであり、念入りな下調べが必要であることは言うまでもない。調査とはその対象であるテーマ、素材、文献、関係者などがきちんと精査されていなければならないからである。。さらに、『地の底への精霊歌』の成功の要因は、彼の中学校時代に耳にした炭鉱民話というテーマの身近さにあったこともあげておきたい。というのは、「炭鉱」というキーワードに詳細条件として「民話」「友子制度」というキーワードで絞り込んだ上で、思春期の「時代」と「故郷」にさかのぼる、そこに、もうひとつの物語=パーソナルヒストリーが重ねられているからである。例えば、今は校舎も無き中学校の校庭=ほぼ原野で、元・坑夫の中学校時代の同級生五名と四十年ぶりの再会をしつつ、炭鉱の民話の発生を探り、彼らの炭鉱体験に耳を傾ける場面には、パブリック・ヒストリーだけでなく、ほのぼのとしたパーソナルヒストリーも読み取れるだろう。このとき鑑賞者は、作者今野の思いに我が思いを重ねて、同級生の話を聞くことになるのではないか。また、前述したように、夕張二坑や平和鉱での遺体発掘について的を射た証言者の言葉も、今野に重ねて話しを聞くとができるのではないか。これは、今野が、炭鉱の内部から外部に身をおき、外部での炭鉱認識のレベルを体感しつつ、その上で、炭鉱部外者となりきらずにいたがゆえ、出来た技と考えていいのではないか。
 ちなみに、1936(昭和11)年に秋田県の農村の床屋に生まれた今野が5歳の時、理髪師の父は軍隊への徴用を逃れるため、夕張の登川炭鉱で坑夫として働きに一家移住している。それが1941年とすると、まさに太平洋戦争に突入する年である。ここで『女ひとり大地を行く』の宇野重吉演じる喜作が、同じ秋田から坑夫になるべく夕張に向かったのが、1929(昭和4)年、その後を追うように山田五十鈴演じる妻のサヨも喜一と喜代二の子ども二人を連れて夕張に移住したことを思い出しておきたい。この兄弟二人と今野とでは一回りほどの年齢差はあるものの、炭鉱は異なってはいても、『女ひとり大地を行く』が撮られる前後の夕張を思春期の目で目撃したことでは共通する。そういう意味では、今野は喜一、喜代二の弟的な世代に属することになり、『女ひとり大地を行く』も彼のパーソナルヒストリーに重なってくる内容なのである(今野がこの作品を見たのは、東京に出てT‌B‌Sに勤めてからだったと筆者に語ってくれたが、この映画が撮影されたのとほぼ同じ環境に、だが喜一、喜代二が炭労の影響下にあったとすれば、今野は友子制度の環境で成長した、ということになるだろうか)。さらに言えば、彼が、東北大学での卒業論文を友子制度のテーマで書いていたという事も考え合わすべきだろう。すなわち、調査対象の地元の事情も、調査すべき炭鉱と言う対象も、友子制度などの文献も、彼の頭の中には既にマッピングされていたという事なのだ。
このような原体験があったからこそ、坑内事故から逃げ出そうとする坑夫の手に土嚢を積む『女ひとり大地を行く』の一シーンへの違和感が、今野の『地の底への精霊歌』のテーマになりえたのである。登川炭鉱の民話も、北上坑の民話も共に、若き日の今野の生活圏から生まれながら、前者には共感、後者には違和感として、その物語の起源が気にかかっていたのではないか。
 さて、最後に、もう一点、木村と今野の作品に共通することを上げておきたい。先に書いたように、木村の作品『まっくら』では、常田富士男、白石加代子、筑紫美主子といった俳優たちが、〝炭〟俗的な炭鉱居住者の虚実ない交ぜの非ストーリー的かつ幻想的なドラマの中で、数々の炭鉱の記録映像を見ることも演じていると言ってもよく、ドラマともいえぬドラマによって、これをいわゆる客観的な記録性を重視するドキュメントと思う人は少ないだろうし、ドキュメントと思わなくても不思議でない作品であった。というところで、「ドキュメンタリードラマ」と言う語を使ったのだが、これはいささか作為的な用法である。というのは、ドキュメンテーションとドラマというキーワードに、TV表現に関心あるものならば、今野勉のドキュメンタリーとドラマを混在させた作品群、TV界における新機軸を打ち出した「ドキュメンタリードラマ」のことを思い起こす人も少なくなく、今野の作品との関連に連結させたかったからである。
 今野のそのドキュメンタリードラマがどういうものか、ここに詳述する余裕はない。が、『七人の刑事』のようなドラマに始まり、『遠くに行きたい』のようなドキュメンタリー番組も作った今野が「両方の不自由さを知っている」こと、ドキュメンタリードラマを始めたのは、「ドキュメンタリーでは言えないことをドラマにして言うため」との言葉を思い起こしておきたい(今野勉・川俣正「出張Café talk 71 炭鉱イメージの諸相」『’文化’資源としての〈炭鉱〉展 「夜の美術館大学」・講義録』、2012年、目黒区美術館)。この言葉を物差しに、『地の底の精霊歌』において、「ドキュメンタリーでは言えないことをドラマで言っている」のはどこかということになるが、それは次の箇所となる。
⒜ 登川炭鉱の落盤事故での死んだ坑夫の励ましの話
⒝ 山本作兵衛の絵に描かれた、火傷の坑夫の瘡蓋を剥がす狐の話
⒞ 救護隊と坑内で円陣を組んだままの坑夫たちの遺体
 これらは、N‌H‌Kのスタジオのセットで撮影されたもので、ドラマとまではいえないまでも、作り物のシーンであり、ドキュメントでないことは言うまでもない。
 で、そこにもうひとつ作り物の映像として、
⒟ 亀井文夫『女ひとり大地を行く』の火災の坑内から逃げようとする坑夫の手の上に土嚢が積まれる話
 がある。とすると、⒜⒝⒟はこの作品の制作時にはすでに、民話、伝承として語り伝えられた三つの話を再現映像化したものとわかるだろう。
 ならば、⒞の円陣を組んだ坑夫の遺体は、どういう意味を持つのだろうか。これは、この遺体を救護した元坑員が、その現場の様子として話した内容を説明する映像でもあるが、このことについて、今野は以下のように書いている。
 「S係員を真ん中に車座を作って救助を待ちながらの、鉱員たちの死までの長い長い時間の酷薄さと、それを受け止めて乱れることなく従容として死んでいった彼らの強さを、どうしても視聴者の胸に刻みこみたい、と思ったのです」(『テレビの嘘を見破る』、2004年、新潮社)。それは、絵的には、14人の坑夫の死の現場の再現である。興味深いことに、この再現シーン⒞には「ドキュメンタリーとしては違和感がある。やりすぎだ」(同上)との批判があったという。今野は、⒜⒝は伝承となっているがゆえに批判がないと理解している。⒟については言及がされていないが、これは映画の一場面であり、今野が制作したものではない、ということもある。が、『地の底への精霊歌』の文脈では、⒟の逃げ出そうとする坑夫の手に土嚢の壁、もまた伝承として扱われていることは言うまでもない。「三つの話をつなげれば、日常の生々しい事件や事故が時を経るにしたがって伝説となり、民話となっていく時間がとらえられるのではないかと考え」(同上)ていると今野自身が書いている。
 さらに⒞について、今野は「地底で死んでいた坑夫たちの現場を再現しようと思いたったときの私の感情を思い返してみると、倫理的に許されるからやるとか、方法として許されるからやるとか、誰にも迷惑がかからないからやるとか、そうした消極的判断からもっとも遠いところで自らの衝動にしたがって決断した」のであり、「伝えたいことがあれば、そのために考えられるありとあらゆる最善の方法を考える、というのが作り手の原点です」(同上)としている。ならば伝えたいこととは何なのか。今野は「死までの長い長い時間の酷薄さと、それを受け止めて乱れることなく従容として死んでいった彼らの強さを、どうしても視聴者の胸に刻みこみたい、と思った」(同上)と書いているが、このことについてちょっと考えてみたい。
 まず、上記の⒜⒝⒟は世間一般が伝承し、民話となったもの、炭鉱の人々の思いの結晶とみなせるだろう。今野が、⒜にこだわったのは、友子制度の関係の中での坑夫たちの強い絆、炭鉱社会の信頼感で結ばれた人間関係の故であった。このことに気がつくと、⒞での亡くなった坑夫たちの車座となった遺体に、今野が読み取ったのはなんだったのか、と改めて考えたくなる。⒜によって坑夫たちの強い絆の思いを知る今野は、円陣を組んだ14人の頭の真ん中に来た空間に、仲間が助けに来てくれるという思い、坑夫同士の絆への思いの結晶、凝縮の念を読み取ったのではないだろうか。それは、「生きる意欲を支える炭鉱社会の絆」と言えるだろう。今野がその思いを読み取った時、この坑夫たちの円陣を組む姿が、閉じ込められた壁を坑夫たちがかきむしった姿同様に、伝承、民話と等しい重みを帯びたものと思えてきたのではないだろうか。
 とすると、⒜から⒞までをスタジオセットで再現的に撮影した意図が明瞭になるだろう。今野は⒞のような話こそ、伝承し、民話化してほしい、民話となるべきなのではないかという思いで、スタジオセットに臨んだのではないだろうか。とすると、この時、今野は、今まさに自身にとっての「民話が生まれる時」をドキュメンテーションしたことにならないか。
 また、坑夫間の強い絆の礎となった「友子制度」の一翼に自身の父がいたことを誇りに思う今野の心持なども読めると、かつての日本を支えた坑夫たちの死を語り継ぐこと、鎮魂の思いが、パーソナルな問題と重ねてなされていると気づかされるだろう。

【ⅺ】
 『女ひとり大地を行く』のところでの記述で、亀井は、炭鉱の若い世代に「炭鉱への思い」を継承し、その未来を託したかったのでは、と書いた。亀井が映画で未来を託したのは喜代二と孝子の二人と多くの炭鉱の若人ということになるが、現実にその思いを継承した一人が、炭鉱出身の今野勉であり、また、『地の底への精霊歌』に登場した彼の中学時代の同級生たち、と言えるだろう。廃山と共に登川砿はもとの大自然に飲み込まれ、今は森林に埋もれていて、人々の炭鉱の記憶も希薄化している。そこで今野が掘り起こしたのは、登川炭鉱の記憶だけでなく、近代日本の炭鉱で、落盤事故などとの遭遇に怯えながら、それでも掘りつづけた坑夫たちのある思い、炭鉱と共に「生きる意欲」を喚起する坑夫社会の強い絆の記憶であった。炭鉱でも、今の時代のどの仕事にも必要なのは、この「生きる意欲を支える社会の絆」なのではないか。他の作品も含めた炭鉱についてのさまざまな作品を見たり、炭鉱を訪ねた若い世代が、炭鉱の記憶を彼らなりに掘り起こそうとする試みが全国で起きている。それは、そこに坑夫とその社会の絆による「生きる意欲」の意味を考える人の輩出と言えないだろうか。そうした今野の思いの継承者が、次にすることが何なのか、大いに期待したく思うのは筆者だけではないだろう。
 炭住が消えた原野を、一匹の野狐が行く姿がラストに捉えられる。かつてここに炭鉱があり、多くの坑夫たちがいた。火傷した坑夫の瘡蓋を剥ぐ必要もない野狐は、安息を得たのだろうか。それとも、炭鉱の賑わいを懐かしがっていたのだろうか…。
正木基(戦後視覚芸術)

【参考】
’文化’資源としての〈炭鉱〉展 Part-3 特集上映〈映像の中の炭鉱〉 プログラム
監修:本橋成一、企画:石川翔平+正木基
2009年11月28日〜12月11日開催
亀井文夫『女ひとり大地を行く』1953年/132分/16㎜ 
山本薩夫『浮草日記 市川馬五郎一座顛末記』1955年/106分/35㎜
今村昌平『にあんちゃん』1959年/101分/35㎜
徳永瑞夫『炭鉱 政策転換の戦い』1961年/33分/16㎜
勅使河原宏『おとし穴』1962年/98分/35㎜
山下耕作『日本女侠伝 血斗乱れ花』1971年/107分/35㎜
石井聰亙『爆裂都市 BURST CITY』1982年/116分/35㎜
土本典昭『はじけ鳳仙花︱わが筑豊わが朝鮮』1984年/48分/16㎜→DV-CAM
山崎幹夫『プ』1994年/92分/35㎜
神山征二郎『三たびの海峡』1995年/123分/35㎜
藤本幸久『闇を掘る』2001年/105分/16㎜
萩原吉弘『山本作兵衛画文『筑豊炭坑絵巻』より 炭鉱に生きる』2004年/70分/35㎜
熊谷博子『三池 終わらない炭鉱の物語』2005年/103分/DV-CAM
港健二郎『荒木栄の歌が聞こえる』2009年/95分/DV-CAM

◆正木基(まさき・もとい) 1951年生。戦後日本視覚芸術。和光大学卒業後、北海道立近代美術館、目黒区美術館にて「難波田龍起展」、「目黒名〈画〉座展」、「石内都展 ひろしま/ヨコスカ」など企画。「シュルレアリスム映画祭」(マックス・エルンスト展、一九八三年)、「現代美術としての映像表現」(美術史探索学入門展、一九八八年)、「映像表現の戦後」(戦後文化の軌跡1945―1995展、1995年)、「映像の中の炭鉱」(’文化’資源としての〈炭鉱〉展、ポレポレ東中野との共催、2009年)など企画展に併せ、映像プログラム立案上映。横浜トリエンナーレ2005」(Director:川俣正、ナカニワ映像プログラム「Rethinking Experimental Films」「Reorienting Art Animation」を山崎幹夫と共同企画)銀河画報社映画倶楽部所属(山田勇男作品製作、1980年代)、東京藝術大学助手・学生との自主ゼミ「取手イメージテーク」主宰(2008~2011年)。東京藝術大学先端芸術表現科などで非常勤講師、近年はアニメーションなど戦後日本視覚芸術の紹介などをクリストバル・コロン大学、ベラクルス州立大学などメキシコ、キューバにて集中講義。casa de cuba 主宰、美術評論家連盟会員。